成長への土台づくり

50周年記念事業
座談会「団地創設の経緯から初期当時のエピソード」

今回ご出席の方々は、当時はまだ青年であり団地造成などを直接指揮をとられた訳ではなかった。よって総和村へ決定をした過程については、先代の記憶や資料に基づく話となったが、様々な要素が重なり合い総和村へ場所を決定されたようだ。
次に、団地の設立前後の様子について、今回ご出席の皆様は正に身を持って経験をされているので、当時を思い出して頂きながら、お話をお伺いした。

山本 皆様は、造成当時はよく現地に行かれたりしたのですか?

大矢 しょっちゅう行ってたね。設立当初は、総和の工業団地と言えば配電盤しかなかった。工場長は、できてから大変な苦労をされたと思いますよ。

白川 僕たちの従業員の中には、「田舎から来て、また田舎に行くのは嫌だ」と言う人がいましたが、結局十何名かが引っこ抜かれました。

山本 社員の皆様には、総和村への異動は、かなり抵抗があったようですね。

白川 それはありました。

宇賀神(清) 最初は皆さん、東京から連れていったんですよね。だから、住宅団地も必要だったのですね。

坂本 私が行ったのが、昭和39年の9月だったと思います。当時、建物は出来ていましたけれども、創業していたのは、宇賀神さんとか港(工業所)さんでしたね。

藤岡 あとは日幸(電機)さん。 日幸さんが一番早かった。

坂本  まず驚いたのは、敷地の中。身の丈ほどの草ぼうぼう。3カ月ぐらいは毎日空き地内の草取りです。端から取っていって、終わる頃にはもうこっちが伸びてしまいます。そういうのがほとんどでした。
 だから、最初は建設部隊みたいなつもりで行きました。先代の社長にも聞いたことがありますが、人選にはかなり苦労したみたいです。みんな嫌がって、行きたくないという者が多かったですね。私も当初は、「おまえ、2年間我慢して行ってこいよ」という感じで行って、その2年が今までずっといるような状態になってしまいました。結果的には、それでよかったのかなと思います。

宇賀神(清) 住宅団地は、家族寮と独身寮がありましたが、当時行かれたのは、独身の方が多かったのですか?

小堀  昭和40年の2月に、工場が全部、全員移転しましたが、ほとんどの方が独身で、私も独身だったので独身寮に入りました。
行って、一番困ったのは食事です。団地の食堂を朝・昼・晩と利用しますが、やはり若いということで夜にお腹が空きます。周りに食べ物屋が殆んどなくて、1軒だけよろず屋みたいなところがあって、そこに行ってインスタントラーメンを買って、夜食べていました。
 また、風がすごいのにもびっくりしました。東京で感じる風と違って、地元で感じる風は砂塵です。朝出勤して夕方帰ってくると、頭が茶色になっていて、すぐお風呂に入って、洗ったあとのお湯が茶色になっているという状態でした。
 そんな所なので、土曜日になると、午後はほとんどの方が東京へ戻ってしまうような状態でしたね。

宇賀神(清) 当時の東京との行き来は、電車ですか?

大矢 電車でしたね。

宇賀神(清) 団地から古河駅までは?

小堀 1日に本当に何本かというバスです。2本か3本だったかな…。

宇賀神(清) 電車の便はどうでした?

白川 上野からだったら1時間くらいで行ったね。

藤岡 ただ1時間に1本ぐらいだったと思いますよ。

坂本 駅から団地前の道路は完全に舗装ではなくて。ひどかったです。

大矢 そう。すごかったね。道が悪くて、狭いし。めちゃくちゃでした。

小堀 乗用車だと、頭を天井にぶつけるのは再三でした。タイヤがパンクしても、パンクしたのかどうかも分からない。舗装した道路に来て初めて、「あ、パンクしている」という状態でした。

宇賀神(清) 団地の外の“従業員クラブ”が出来たのもその頃ですか?

小堀 いや、あれは、私どもが移ってから相当たってからでした。

坂本 最初は、あそこは日用品のスーパーマーケットでしたね。

小堀 1階がスーパーで、2階が将棋クラブとか、従業員の厚生ですよね。、マージャン大会をやったり、将棋大会をやったりしました。

坂本  あそこに日用雑貨の店ができたので、社宅の人たちは非常に便利がよくなりましたね。それまでは、日曜のたびに自転車で古河まで買い出しですよ。行って帰ってくると、お尻が痛くてどうにもならなかった。当時、傍の店というと、今の横堀ストアと、久能のバス停のところに鈴木酒屋という雑貨屋があるくらいでした。
 当時は車を持っている人は少なかったので、ほとんどの日用品は、日曜日を待って自転車で買いに行くか、あとはバスでした。
 だから、東京から移った人は、必要に駆られて車の免許を取ることになりましたね。それまでは、免許なんか取るつもりは全然なかったのに…。

藤岡 私が一番印象に残っているのは、電話が長距離ですぐにつながらなかったことですね。タイミングがいいと10分か15分だけど、場合によっては何時間も経たないとつながらない。そういう時代です。あの電話には本当に困りました。今では信じられません。

坂本 社宅でも、一つ(社)の社宅に代表電話が1台、あとはみんな呼び出しです。めいめいのところに入ったのは、だいぶあとのことです。だから、(代表)電話のあった家は、かかってくるたびに呼びに行かなければいけなくて結構迷惑したんじゃないかな…

宇賀神(正) 創立からしばらくは、毎年何かイベントをやっていましたね。運動会をやってみたり、バザーをやってみたり。体育館ができてからは、ちょっと名の売れている歌手を呼んできて演芸大会みたいなものをほとんど毎年やっていましたよ。
周りは普段からお付き合いのある配電盤に関係した人たちばかりですから、みんなやり易かったでしょうね。しょっちゅうお付き合いがありましたね。

小堀 写真クラブとか絵画クラブとか、いろいろなクラブがあり、各社の方が集まっては、写真クラブだと日光へ武者行列を撮りに行ったりしてました。

宇賀神(清) それは、会社単位でなくて組合でのクラブ活動ですか?

小堀 団地全体のクラブがありました。好きな人がそこへ集まってました。横の関係というか、他社の従業員同士とも結構仲よくさせて頂きました。野球があり、バレーボールがありということで、昔は自分の会社の人たちと同じぐらいの親しさがありました。配電盤の野球大会もありましたね。

白川 そう、オール配電盤でチームつくって外と戦ってましたね。

坂本 県大会まで行きましたよ。

小堀 バレーボールクラブも県大会まで行きましたね。一応、私はバレーボール女子の監督をやっていました。これがそうです。当時は私もスマートでした(笑)。県西地区で優勝して、県大会まで行きました。そういうクラブ活動が盛んでね。ですから、ほかの会社の女性とも結構仲良くして、違う会社同士の結婚もたくさんありましたね。

坂本 そうですね。

小堀 そういえば、当時、女子のプロ野球チームがあって、配電盤の代表とやった事がありましたが、女性に敵わなかったです(笑)。
それでも総和の中では配電盤のチームは強かったですね。今は、チームが少なくなりましたが…。

坂本 野球をやっていないですものね。

大矢 チームができる会社が少なくなったんですね。

宇賀神(正) 当時は野球チームだけでも10社以上あったでしょう。毎年、会社対抗のリーグ戦をやっていました。

小堀 野球だけは特別な待遇で、夏には3時から試合をしていました。

山本 えっ、平日のですか?

小堀 ええ。他の方は仕事をしていますが、野球部に入っている従業員は野球場で試合ができました。ただ、やはりそれではまずいのではないかという事で、その後土曜・日曜に試合をやるようになりましたが…。

坂本 リーグ戦の場合はどうしても1日では終わらないので、平日を利用して1試合ぐらいずつ消化していって、決勝戦までやりました。春と秋と両方やったような記憶があります。ただ秋口になると日が短いので、どうしても4時半頃からスタートというケースもありました。各社の工場長にかなり理解があったからできたのでしょうね。

小堀 昔は、道路を挟んで東西対抗とか、野球はいろいろやりました。会長がみえて、陣頭指揮でやりましたよ。

山本 そういうことは団地創立当時から始まりだしたのですか?

坂本 そう、当時は盛んでしたよ。それが、時代が過ぎていくに従って、だんだん団体競技が拒否されるような感じになりましたね。実際、今だとボウリング大会が残っている位ですよね。

山本 ちょっと前まではソフトボール大会も、やっていましたが…。

坂本 ソフトボールも、春と秋の年2回やっていましたよ。確か、白川一郎理事長の頃、私がたまたま工場長会の委員長をやっていて、大会の表彰式だの何だの、理事長に「ちょっと用事があって行けないから、坂本くん、頼むよ」という感じで代読したりした思い出があります。あの後、何年も経たないで無くなってきているんじゃないのかな。

宇賀神(清) 工場ができた当時の一番の苦労話と言えば何ですか?

坂本 一番困ったのは、交通の便の悪さです。それから、道路の悪さで、みんな気を使ったのが、「できあがった製品を(国道)4号に出すまでの間に、トラックの揺れで傷が付いてしまう」とか、そういう話をよく聞きました。

宇賀神(清) 地元の出身の方は多かったのですか?

小堀 多かったですね。

白川 女性の場合は地元が多いでしょうね。男性の場合は大体東京から連れていきましたから。

宇賀神(清) 従業員の採用や、教育でご苦労されたことは?

坂本 創立当時は、中卒が多かったですね。高卒を採用するのは、暫くたってからです。当時は、金の卵みたいな感じで、とにかくなかなか集まらない。大事に育てるということで、各社各様に教育には力を入れていたようですが、、新入社員教育とか、そういったものはありませんでした。新入社員教育は、暫くあとになってからで、三和の(県立)訓練校ができてからですよね。

宇賀神(清) 従業員の採用は、難しかったんですか?

坂本 遠くからは来ないし、通うのも自転車ですから、総和中学校とか、近隣の中学校が主ですから、なかなか難しかったですね。

山本 当時は交通の便も悪いので、近くの人しか通えないですよね。

坂本 団地が配電盤だけの時には結構集まりましたが、他の団地が出来てからはだんだんと難しくなりましたね。結果的には、地元採用もあったけれども、逆に東北のほうから集団就職みたいな形でというケースもかなりありました。

宇賀神(清) 田舎から出てきて「田舎は嫌だ」と言う人もいたでしょう?

坂本 いました。東京で入って、回されるというケースです。最初の頃は、地元で集めた人間ばかりでは、経験が浅くてどうにもならないので、「おまえ、行ってこいよ」と、技術を持った人間が指導を兼ねて行くという形でした。

山本 仕事が終わった後はどう過ごされていたのですか?

坂本  近所の会社の人たちと仲良くして、意外と楽しんでいましたね。当時、車が無くてバイクに乗っていましたが、よく夜中にバイクを乗り回されて、朝になって起きてみるとバイクがない。どうしたんだろうと思うと、とんでもない所にほっぽってある。そんな事があったりしましたね。
また、妻帯者と独身者も社宅が近所だったので、普段から交流ができました。そういう意味で、コミュニケーションがよく取れたという気がします。
 妻帯者も、子どもが夏休みになると、子供会とかとタイアップして納涼会をやったりしました。スイカ割りをやろうと言って、スイカを近所に買いに行く。すると、「もう要らないから、好きなだけ持っていけ」と、軽トラ1台分位をもらって来た事もありました。
 日幸(電機)さんの社宅の空き地で、「子供会をやるよ」と言ったら、「子供会だけじゃなく、社宅の住民も仲間に入れてくれ」と言うので、夜、スイカ割りをやったり、女性部がおにぎりを握って1個100円で売ったり、結構そんなことで盛り上がっていました。1回やると、「毎年やってくれよ」という話も出たりして、あの当時のほうがかえって楽しかったね。

宇賀神(正) 夏は(団地に)プールもあったので子供たちが結構来てましたね。潜っちゃいけないから、監督は大変だった(笑)。

坂本 配電盤の子供は、夏はプールが使えたので、とても喜ばれましたね。

宇賀神(清) 10周年のときは、盛大なパーティもされたみたいですが、当時は何か他のイベントもされたのでしょうか?

小堀 昔、創立記念日に、団地から記念品が出たりしましたね。

宇賀神(正) うん、そういった事もあった。

小堀 防水型のラジオ付き時計とか、従業員が喜びましたよ。

白川 あの頃は団地内がみんな身内という感じがあったから、まとまっていて、何かというと色々な事をしましたね。

坂本 社長さん方を先頭にクリスマスパーティーをやった覚えがありますよ。

小堀 そう、やりましたね。

久保田 15周年には運動会もやりました。それが、私が初めて参加したイベントで、確か、屋台みたいなものが出た記憶があります。

宇賀神(正) お店も結構出ていたよね。

小堀 あれは準備が大変でした。各社対抗のリレーがあって、必ず工場長が1名入る。ある年、リレーで私どもの会社が優勝して、その勢いで総和町の運動会に出た事もありました。会社から3人と他社から一人お手伝いを頂いて出たのですが、残念ながら消防団に負けてしまいました。
 翌年には雪辱しようということで、今度は、社内の野球部3人とサッカー部1人の4人で出ました。最後にアンカーが消防団を抜いて優勝しましたよ。

久保田 確か、“新風会”(二世会)でも参加しましたね。

宇賀神(清) “新風会”は、いつ組織されたのですか?

久保田 昭和43年ですね。

宇賀神(清) もともとプライベートな会ですか?

白川 「次の世代を背負うという人たちでやる」ということで、組合でバックアップしてくれました。“新風会”の二代目会長は宇賀神さんでしょう?

宇賀神(正) そう。どこか地方の工場に見学に行ったこともありましたね。

坂本 ありました、ありました。

小堀 例えば三菱とか、そういった大きな工場です。

大矢 いまでは予算だけ残って休会のようになってますよね…。家族ぐるみで参加して、うちの妻は、白川さんや宇賀神さんの奥さんと親しくなりました。

白川 八芳園ですね。

大矢 そう、八芳園で知り合いになったね。

坂本 何か夢中で突っ走ってきたたような感じがしますよね。


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